昨年の五月ももちろんそうであったが、さらに喜ばしい報告が重なったことを、読者の皆さんは覚えておいでだろうか。「山の日」である。ヤマノケではない。新年からなにを思い出せるのだ、という話である。はいれたはいれたはいれすみません。
山の日法案が参議院に送られ、可決されたのはちょうど二〇十四年「五月」二十三日であった。実際に施行されるのこそ二〇十六年からながら、祝日が増えたというのはやはり嬉しい。祝日編成のNHK教育が見られるのである。特別版の「いないいないばあっ!」である。ばあっ。
さて、この嬉しさ、喜ばしさはなにかに似ていると気がついた。「休校」である。台風の日、大雨の日。ただの登校日が突然休日に変わる喜ばしさといったら、なかった。なにも「学校に行かなくていい」からではない。「やってなかった宿題が誤魔化せる」からでもない。それは翌日に提出だからだ。
「サプライズ性」「予想外」、これが喜びを強めたのである。
この「山の日」もそれではいっそこうすれば良い。八月十一日などと決めず、毎年、月日を変え当日発表とするのである。
ある朝起きると、朝刊を読んだ父が驚いて言う。「今日は山の日だ」。子供は大喜びして、庭を駆け回る。猫はこたつで丸くなる。その突発性は子供に歓喜、 大人たちに忘れかけていた「ゆっくり行こうよ」のメッセージを思い起こさせる。そんな祝日があっても、いいではないか。会社の一つや二つ倒産するかもしれないが、些末なことである。
しかし、一抹の不安も残る。「それでは『山』の日の意味がない」と。けれど、実際の山の日も「盆休みと連続させやすいから」という理由などであの日に決まったらしい。結局のところ、山の日が固定されている理由はそれほどない。だからこそ私は「山の日サプライズ」を主張したいのだ。
第一、いざサプライズとなれば予想屋も出現するはずである。休日が事前に分かれば、商売などさまざまなことに役立つのは間違いない。「山の日」を当てる、その意気込み。さあ、山を張れ。