社会
第三十一回共通テーマ参加作品


 喫茶店の窓に町が映る。列のように並んだ平屋を眺めながら、僕は女子学生を待っていた。きっかけは一昨日だった。
 その日、駅の人込みの中に、僕はホームへ立つ女子学生を見つけた。彼女は僕と同じ学部の学生で、通り過ぎるときには挨拶をしあう程度の関係だった。僕は彼女へ近づこうとはしないで、ただその後ろ姿を見ていた。
 ふと考えが浮かんだ。こっそり写真を撮って、彼女を驚かせてやろう。僕はそういう他愛のないいたずらが好きだった。そこで携帯のカメラを彼女に向けたとき、ホームに電車が入ってきたのを知った。
 瞬間、前に立っていた男を彼女が押した。僕は思わずシャッターを切った。慌てる格好をしながら、その若い男は倒れて落ちた。車輪が軋む。ざわめきが広がる中、隠れるようにホームを去った女子学生を、僕は眺めていた。

 写真の存在について話したのは、次の日だった。女子学生は少し目の色を変えたが、いつもどおりの顔へ戻って、その写真を買うと申し出た。僕は面食らった。あくまでも、罪について僕は尋ねたかったのだ。自首に持ち込むのが僕の責任で、彼女には社会的な死を、とさえ考えていた。しかし彼女のそんな返事を聞くと、僕は今までの考えが溶けるように消えるのを感じた。
 そして、金額を口にした。オートバイの値段と、それのためにしていた貯金との、差額。

 彼女は遅れてきた。いつもより地味な格好だった。僕はポケットの中の携帯電話を確かめるように、布地を通してそれをそっと撫でてみる。その前に、彼女は座って、封筒に入った「差額」を机の上に置いた。僕は受け取る代わりに携帯を渡した。彼女は、写真を見て笑った、ように見えた。そのあと手慣れているみたいに、写真を削除した。

 先に帰っていく彼女を見ながら、僕は不思議に大きな虚脱感に襲われた。暗く、深い霧に似たものが僕の中にあって、それはひたすらに僕を狙っている。

 結局喫茶店が閉まるまで、僕はそこを動けなかった。帰り道で、やっと「差額」の入った封筒を開いた。僕は一体、彼女をどうするべきだったのだろう。やはり彼女を「社会的な死」へ持ち込むべきだったのだろうか。なぜか僕はそうしなかった。理由を探すには、今日は暮れていて、霧は深かった。

 分からないまま道を曲がり、角のコンビニの募金箱へ「差額」を詰め込んだ。店員は怪訝な顔をし、僕は笑ってみた。しかし霧が晴れることはなく、初めて僕は社会的に死んだのが僕だったことに気がついた。


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