泳げない


 「深いなあ」

 川崎が言った。言われればプールは昼間よりも、底を見せず、暗かった。そして、深かった。

 遠くから、排気音がした。夜に排気音を聞くと西村はいつも、旅行の日、朝早く家を出た時の記憶を分かりやすく頭へ浮かべるのだった。西村はぼけっとその記憶に浸っていた。浸りながら、プールサイドに座る臀部の冷たさを受け止めていた。

 「そういえば、横手は来るのか」

 川崎に問われて、彼のほうを見た。眠そうな目をしていた。西村はまた、水面へ顔を戻した。

 「来るんじゃないか、そう言ってたから」
 「でもいくらなんでも、夜にプールへ来いってまともな話じゃねえよなあ」
 「それは横手にも分かってるだろ。分かった上で、来るって言ったんじゃねえか」

 また、二人は黙った。黙ると、虫の声がよく通る。蝉と、こおろぎ、というか、ああいう虫たちの声だ。しばらく西村は、鳴き声から何種類の虫がいるのか当てる作業に没頭した。これは、よく鳴く虫だ、始終鳴いている。こっちは幾拍か置いて、また鳴く。さっき聞いたあの声の虫は、もう鳴かないのだろうか。

 足音がした。二人は息を詰めた。耳をすます。「横手か」と川崎が聞いた。暗闇に目をこらす。「違う、警備員だ」。西村は答えて、死角になりそうなフェンスの際へ、川崎と移動した。警備員は馴れた歩き方で、やがて去っていった。

 「焦ったなあ」

 川崎が言う。西村は、横手ではなかった、というのに落胆していたから、それほど焦る気持はなかった。しかし焦ったかそうでないか、と言えば焦っていたのだった。冷たい風が、そっと通り抜けた。

 横手は、まだ来ないのである。


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