電車


 東京行きの電車は小さながたんがたんという音を出して車輪を回転させつつ加速した。私は、電車に乗っている筈の兄の顔を思い浮かべた。大した事の無い笑顔が浮かんだが、何時の顔かは判ら無かった。

 「お母様、加世子は乗りましたかねえ。」
声の方向を振り向くと、艶やかな着物に身を包んだ二十代半ばの女が立っていた。すらりとした首筋に、痣があるのが遠目に見える。傍らには、いやに老けた白髪混じりの女がこれまた立っていた。母親らしかった。

 「ええ。加世子は乗りました。私がこの二つの目で見ておりましたもの。」
低く、冷たい声で母親が答えた。小さく震えるその声は、私に妙な汚らしさを感じさせた。

 吹いてきた冬の風に、体を縮こまらせて私は煙草に火を付ける。もう兄は行ってしまったが、親子が妙に気詰まりで帰ろうと思えずにいた。煙草はみるみる寒風に煽られ短くなっていく。

 広島駅のホームは、次に出る大阪行きの電車を待つ客で賑わっていた。彼方此方から白い息が上がる。安物の洋装で膨れた子供が、白くなる息を面白がって、何度も「ハア。」と息を吐き出していた。

 「加世子は乗りましたかねえ。」
あの女がまた同じ事を繰り返している。

 「ハア。」

 「ええ。そうでしょうよ。」

 「ハア。」

 私の横を団体旅行の老人達が通り抜けた。皆、手に手に土産物を下げている。薄い紫の外套を羽織った老婆の香水の臭いが鼻についた。

 「加世子は、乗りましたかねえ。」
私は声の方に目を向けた。老人達の隙間から女が見えた。しかし母親の姿は無い。電車がホームに入り、やがて、汚らしい悲鳴と騒ぎ声が聞こえてきた。


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