田中


 田中というのは俺の友達だったけれど、田中からすれば俺は田中の友達なんかではなかったのかもしれない。

 

 寂しそうに笑うと言ったりする。でも寂しそうに笑う人というのは、実際にはあまりいないんじゃないだろうか。

 俺だって実際にそんな人を見た記憶は殆どない。寂しい人は寂しそうな顔をしていたし、笑っている人というのは笑っているだけだった。でも田中は違う。田中は寂しそうに笑うというのを体現しているように見えた。そのせいか俺はあいつの顔を長く見ていることが出来なかった。

 田中は変なやつだった。あの頃俺たちは大学でさして意味の無い実験ばかりしていた。何かを調べ、データをコンピューターに打ち込む作業。

 ある日から田中は作業を増やしだした。もともとコンピューターにされていたデータの記載を、加えてレポート用紙にもするようになったのだ。いつも紙の上にペンを走らせていた。けれどそれを俺に見せてくれる事は一度もなかった。何でそんな手間のかかる、余計な事をするんだ、と俺は聞いた。人に見せるわけでもないのに、と。今思えば普段俺の言う事に逆らわない田中の、紙を見せないという不思議な反抗に苛ついていたのかもしれない。田中は例の笑顔で黒色に染まった紙を抱えて、隠した。あとは、黙っているだけだった。俺はもう何も言い返す気にならなかった。

 それから一週間ほどたち、田中は大学校舎から転落して死んだ。自殺と警察では判断されたらしかった。俺はどうすればいいのかよく分からず、何事も無かったように過ごし、相変わらず意味の無い実験を重ねた。

 そんなある日、研究室に田中の妹と名乗る高校生が来た。実験を続けながら俺は妹を横目で見ていた。妹は、後ろのロッカーに入れられていた兄の私物を自分が持ってきた赤い鞄に詰め込んでいった。そして、あのレポート用紙の束を見つけた時、妹は俺に「これは何ですか」と聞いた。遠くから「実験の結果を書いてたんです。僕は読んだことありませんけど」と言った。

 妹は何かを言いかけたが、それを止め、立ち上がると会釈をして研究室を出て行った。俺は少しその足音に耳を傾けていた。

 しばらくして、妹の置いていったレポート用紙に目が留まった。用紙には何も書かれていなかった。


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