仕事はもう済んでいた。担当の宗田先生が二人を車で送ると言って、その車をとりに、学校から五分の先生の家へ傘を持って出て行った。二人は本当にすることがなかった。
藤谷くんの顔を祥子は見ていた。藤谷くんはときどき、祥子のほうを向いて、目が合ったのに気がつくと、慌てて目をそらした。何回か繰り返したあと、藤谷くんは「なに」と言った。
「藤谷くんってさ、どんな曲聞くの」
「えっ」
「なんかさ、バンドっぽいよね、顔」
「はあ」
「楽器とか弾かないの」
「弾かない」
「そうなんだ」
「安浦は弾くの、なんか」
「弾くよ」
「なに」
「ぴあの」
祥子は長い指で机をたたいた。藤谷くんは手を照れたように見ていた。
「習ってるの」
「うん、幼稚園のときから」
「じゃ、上手いんだ」
「上手いよ」
「バッハとか弾けるの」
「あはは、バッハ」
「うん」
「弾けるよ」
「いいな」
がらっと引き戸を開いて先生が出て来た。シャツがあちこち濡れている。「ひどい雨だよ」と先生は言った。それは分かっていたことだったが、祥子は藤谷くんと「そうですか」と応えた。
先生のセダンの、うしろに二人で乗った。藤谷くんが助手席に座りそうだったから、祥子は先に助手席へ荷物を置いた。藤谷くんは困ったように、うしろのドアを開いて、祥子の横へ座った。先生は「ひどい雨だ」と言いながらエンジンをかけて、缶コーヒーを飲んだ。ラジオのスイッチを入れた。ラジオからは天気予報が流れて、藤谷くんは耳をそばだてて聞いていた。そういえば藤谷くんはなにを聞くんだろう。きちんと聞かないままはなしが通りすぎてしまった。雨はざあざあと降って、ワイパーが忙しく流れた。「安浦の家、高妻団地だったよな」と先生が言った。「はい。あっ、でも今工事してて、上まで車で上がるの、だいぶ遠回りしないといけないと思います」「そうか、じゃあどう行こう」「大丈夫です、下まで行ってもらったら、上るだけなんで、それで大丈夫です」「そうか、でもなあ」「先生、自分の家もそっちだし、あれなら送ります」と藤谷くんが言った。藤谷くんは祥子と目を合わせないようにするみたいに、窓の外を見て、言った。窓には雨がぶつかって、景色が滲んだように浮かんでいる。「うん、じゃ、雨も収まってきてるし、そうするか」と先生は言った。藤谷くんは黙って頷いた。祥子は自分の手を見て、それからシートベルトを引っ張ってみたりした。ドアの下のところに、文芸雑誌が入れてあって、ぱらぱらめくると、たまにきれいな傍線が引いてあった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「藤谷くん」
「なに」
「ひどい雨だ、うん」
「それ、先生の真似か」
「うん」
「似てない」
「あはは」
「はは」
「藤谷くんさあ。私が藤谷くんの指を思いっきり噛んだらさ、お返しに私の指を、噛んでくれる」
「なんだよ、それ」
「どうする」
「たぶん、噛まないよ」
「うん」
「安浦、ぴあの弾けなくなるだろ、噛んだら」
「うん」