線のない家
 芙志子はよく、デジャヴを感じた。大通りのインテリア・ショップや、住宅地の中に建つアパートがその舞台になった。建物を見たとたん周りから切り離されて一人になり、遠い昔ここで過ごしたような気がしてくる。あのとき自分は今よりずっと大切なことをして暮らしていた。懐かしさは涙さえ流れさせた。
 町へ引っ越してから時間がどれくらい経ったろう。カレンダーを見ると二週間にもならない。気苦労が多い。畢竟なんとかなることもたくさんあったが、成功したはずなのに胸が圧されるような、いやな気持ちにさせられることもあった。芙志子はたくさんの美しいものを知っていたけれど、それはそういうときになにもしてくれなかった。せいぜいそばに立っているくらいで、視線もなにもないのだった。

 ある日、芙志子は電車へ乗って、近くの大きな町へ出かけた。電車は空いていて赤いシートに腰を下ろすと、町がぼやけて左から右へなくなっていくのがよくわかった。遠くの町ははっきり光り、山へ並べられた看板の文字も読めたのに、線路沿いの小さなペット・ ショップは瞬きと同時に消えてしまう。芙志子はもっとたくさんのものを覚えていたかった。もっと幸せになりたかった。もっときれいでいたかった。それだけ、自分はなにもわかっていないのだという気がしていた。

 電車を降りて郵便局へと、住宅地の中を抜けて歩いた。黒いかばんを積んだ自転車が走り抜け、バンパーの鮮やかな社用車が横を通った。いくつもの家がある。あの家に生まれたら、自分は今日、なにを食べてから出かけたろう。このマンションから下をのぞくと私はどのように見えるだろう。子供が一軒の家の前で、友達を呼びかけた。子供は声を張るようにして誘うのだが、返事は聞こえて来なかった。

 郵便局は日曜のせいか、エーティーエム以外にシャッターが降りていた。それは生まれた町の役場の様子と似ていた。あのとき証明書にあった自分の名前は、ひどく他人のように感じられた――。郵便局中が暗かった。
 タッチパネルの画面を扱い、一万円を引き出した。忘れものをしたようで、何度も振り返りながら郵便局を出たとき日差しは強いままだった。この町では突然昼になって、突然真っ暗になってしまい、また突然太陽が真上に現れるのだろうか。芙志子はたばこを今吸ってみたいと思ったし、真夜中に中毒死した昔の音楽家の名前をいくつも挙げられたが、次の目的地まで歩くことしかやらずに、たくさんのものを浪費した。こんなはずじゃなかった、ということもない。こんなはず、が芙志子にはわからなかった。帰りの電車を待つホームには、太陽が照りつけて涼しい風が吹くと同時に、どこかから現れてまたどこかへ行ってしまう虫たちが流されてきた。一年後自分はきっと幸せだろうと思った。

 小さな駅だから急行は通過した。芙志子はホームの端へ歩いてみた。幼い子だったらもっとたくさんの幸せがある。そのころのような幸せがもう一度ほしかった。どうして幸せは年を取るごとに欲望になっていくのだろう。芙志子は「若い今、恋愛をしなさい」とにやにやしながらいう、「人生の心得」がだいきらいだった。恋人同士で朝まで息をすることに幸せを感じられなかった。それはただのいろいろな欲望が現れているだけみたいに思えたし、欲望の中で一日いやらしいことをして過ごすのが若者の義務なら若者という時間が私につまらなく感じられるのは当然じゃないか。

 ホームの端は屋根が途切れて、日差しが当たった。くる、と回る。電車の消えた線路を眺める。 日差しにうたれて茶色く、さびた線路が熱を発している。こういうことがずっと幸せだと思った。ずっとましだった。遠くには鉄塔が見えた。数分が経ち、やがて電車はホームを沈み込ませてやってきて、芙志子を家まで運んだ。


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