青春の後ろ姿
 昔の詩や小説を読んでいると、作者が感動していることがある。
 「桜が降ってくる。ああ! みんな桜の下だ」。こういう調子で、突然、「ああ!」と来るのである。これは良い。胸に迫ってくる勢いがある。
 青春とはいわば「ああ!」である。若者がさまざまなものに感動するさまは、まさに「ああ!」であり、老人が青年時代を思い出して、「ああ! 帰らない」と言うとき、それも青春の「ああ!」である。

 このように青春には「ああ!」が漂っているが、その中にある「青春的言葉」は見逃せない。私が注目しているのは「ぼかア」である。宮沢章夫さんのエッセイで海外ロックミュージシャンのインタビューが邦訳されるとき、一人称が「おいら」にされることを扱ったものがある。「おいら」もどうかしているが、「ぼかア」とはなんなのか。マフラーを巻いていそうである。あとギターも持っているにちがいない。

「ぼかア、きみの意見は、まちがっていると思う」
  真剣に言うのである。目はこっちを見据えている。そうだ、青春は真剣でなければならない。「なにも起こらない青春」「バカやっている、かけがえのない青春」みたいなやつらを青春と認めてなるものか。「ああ!」と叫びたくなる激動がそこにはない。青春は激動である。まとめると「ああ! ぼかア、激動」である。

 「じゃあ、どうなんだい」。「青春的言葉」は、相手から意見を聞き出そうとも試みる。それは畢竟、少年時代の「独りよがり」な言葉からの脱出なのである。大人へ変わるために、われわれは誠実になろうとし、空回りしながらも、それまで使ったことのない言葉を使いはじめる。そこに青春が息づいて、「ああ!」という叫びを生む。

「まったくきみにはあきれたな」
「ぼかア、怒るよ」
 青春の彼らは、怒る前にそれを教えてくれる。


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