舌足らずだけれど
 心から信用できる人が、あなたにはどれくらいいるだろうか。ちょっとした知人、話す友人はたくさんいても、心からと言うとむつかしい。私の場合、家族と、家族と、あとは家族くらいのものである。
 それでもいるだけいいのかもしれない。「もう誰も信じられない」と詐欺事件の被害者が言うのを聞いたことがある。人間は安心できないのだろうか。なら本はどうだろう。そう、私は家族と家族と家族以外に、本にも信用を寄せているのである。

 例えば本屋に行く。タイトルに目が止まる。
「神はいた!」

「いたのか」

 これが私の信用である。

 上の例はともかく、本を信じているのは事実で、その裏返しでもあるのか本に間違いを見つけると不思議な驚きを感じてしまう。怒りでも、ショックでもない、 ただ不思議な驚きだ。例えば雑誌で「先月号の17ページに誤りがありました」と見つけると、早速先月号を探しに行って「おお」と思う、あのような驚きなのである。
 私はそんな気持ちに心惹かれてきたが、中でも「味蕾」の話には驚かされた。舌にある「味」を感じる場所が「味蕾」である。かつてこういう図が本にあった。舌をいくつかの部分に地図のように分けておき、各地点に酸味、甘味、という名前を付けている。いわば「酸味国」「甘味国」といった具合で、国だけに「苦味国」にはコクがあった。うそである。

 ともあれ、各味蕾によって感じる味覚は異なると説明されていたのである。が、この図、今では完全な間違いだと知った。味蕾が複数あるのは事実でも、どの味蕾でも「酸味」「甘味」「苦味」などすべての味が感じられるらしい。分かりやすく言えば弁慶が七つ道具を持っていた、のではなく、弁慶が十徳ナイフを七つ持っていた、というわけである。「道具を忘れた友だちがいたときに用」て、それはお箸か。

 お箸か、もなにもないものだが、「味蕾の図」を信じていた私には、不思議な驚きが強かった。

 なにしろ、こんなことをした。まだ小学生のころ、「味蕾の図」を私は試してみた。図と見比べながら醤油を箸で舌へ垂らす。するとどうだろう、甘味国では確かに甘く、酸味国では酸っぱく、苦味国では苦く感じられた。コクはない。今思えばあれはなんだったのか。「プラシーボ効果」だろうか。

 本への信用で感じた味も、不思議な驚きで否定され、さらに、「プラシーボ効果」という、これもまた本を信用して得た言葉で説明を付けている。私はいろいろなことを信用してきたようで、実際自分に都合の良いことばかり信じているだけかもしれない。そう考えるともう、なにも信用できない気分にもなる。


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